2012年11月28日水曜日

大和説を完全に否定する銅鐸出土状況



 『Yahoo!天気・災害』 

 ※出典:加治木義博言語復原史学会

 大学講義録 34 24頁



 「図」大和説を完全に否定する銅鐸出土状況
 《大和説を完全に否定する銅鐸出土状況
 「大和説を完全に否定する銅鐸出土状況

 大和説なら橿原を中心に最も多く出土するはずだが、

 下の銅鐸出土状況図では奈良全体でも僅かで、愛知の半分もない。

 むしろ倭の五王圏に集中している。

 私は、ウッタラ政権から倭の五王政権まで続いた

 海人(ハヤト)の信仰文化だったと考えている。

 「写真」

 入れ子になったサナギ

 滋賀県野洲(ヤス)郡野洲町小篠原大岩山出土

 「写真」

 小坂井銅鐸出土状況 (1924年)

 「図」

 原田大六『日本古墳文化』

 青銅器分布図 (1954年)による

 『ウッタラと銅鐸が残した多数の言語遺物』

 「銅鐸」というのは現代の考古学が仮につけた学名だから、

 古代からあった名前ではない。

 古代には何と呼ばれていたか。

 ウッタラが使った言葉はパーリ語だから、

 金属製で宗教用の打楽器には

 銅鑼(どら)、鐃鈸(ねうはち)、鼓(つつみ)などを

 意味するalamba アーラムバ、

 alambara アーラムバラ=太鼓などがある。

 ところがalambati アーラムバチと変化すると、

 「ぶら下がる・懸(か)ける」という意味になる。

 銅鐸はその上部の形からみて、

 間違いなく「ぶら下げる」構造になっており、

 下に置いたのでは鳴らないのは明白である。

 そしてアーラムバチの「バチ」は、

 打楽器を打つ「ばち」と同じで、

 鐃鈸(ねうはち)の「ばち」でもある。

 また昔の僧侶などが、

 門(かど)づけをする際には鐘を叩いて鳴らしたが、

 それを鐘叩きとはいわずに「鉢(はち)叩き」といった。

 このハチもまたウッタラ時代のアーラムバチの遺物だとみられる。
 
 こうみてくると植木鉢は銅鐸を逆さにした形と共通牲が多く、

 鉢というのは底のある食器だけとは限らないことに気付く。

 そして打楽器というものは

 「打ったら鳴るが、打たねば鳴らない」

 その「打ったら鳴る」銅鐸が

 ウッタラの持ってきた聖器だったのだから、

 「打ったら」という日本語の語源がこの「ウッタラ」に結びつく。

 銅鐸以前には打楽器は見られないから、

 これらの複数の日本語は、

 ウッタラと銅鐸が残した言語遺物だったとみて無理はない。

 『言語学が明かにした「銅鐸」の正体』

 銅鐸は兵庫県に唯(ゆい)一伝世したものがあり、

 それは御輿(みこし)のように担(かつ)ぎ回り、

 海に入って水で洗う。

 そこではサナギと呼ばれている。

 キ・ギは沖縄ではチ・ヂで、

 パーリ語は沖縄経由で入ったから、

 サナチをパーリ語で捜すと

 「サナチ サワン sanati savan 音を立てる。騒ぐ」があり、

 銅鐸の使い方から、「騒ぐ」の語源までわかる。

 またサンナッチ sannattiという言葉は

 「説得、勧説(かんぜい)・宣撫(せんぶ)、教える」

 といった意味をもっているから、
 
 ウッタラの仏教宣布そのものである。

 このサンナッチも南九州本土では短縮して

 「サナッ・サナキ」になる。

 これは四国ではサヌキになり、

 近畿ではサナギになり、

 中部ではサナゲになる。

 それに漢字を当てると

 讃岐(さぬき)・

 蛹(さなぎ)・

 猿投(さなげ)になる。

 讃岐は香川県。

 猿投は愛知県豊田市猿投町。
 
 そこに近い宝飯(ほい)郡小坂井町で

 大小の銅鐸が「入れ子」になって出土した。

 その様子はまるで蚕(かいこ)の蛹が皮を脱ぐように、

 中にも銅鐸が入っている。

 その様子に似ているというので、

 「蛹(よう)」を「サナギ」と呼ぶようになったことになる。

 それはサンナッチ・サナチの

 聖なる宝器・銅鐸に似ているという意味だから、

 中が空(から)の「蛹の抜(ぬ)け殻(がら)」を指す

 名詞だったのである。

 讃岐も尾張も銅鐸圏の中心から遠いが

 多数の銅鐸が出土している。

 讃岐は仁徳天皇=倭(ウワイ)王讃の名乗りの国。

 尾張は倭の発音「ウワイ」への当て字。

 共に強大な仏教国なのである。

 『サカ→サタが解いた「銅鐸・出雲大量出土」の謎と答』
 
 その銅鐸が、

 1996年に島根県大原郡加茂町の岩倉で計38個出土した。

 これは滋賀県野洲(やす)町大岩山の記録24個をはるかに超え、

 簸川(ひかわ)郡斐川(ひかわ)町神庭(かんば)荒神(こうじん)谷

 銅剣358本と共に出土した6個とで計44個、

 全国の出土数約500個の9%を占めた。

 分布中心地の大阪から遠く離れた出雲で、

 なぜ大量に出土したのか?。

 当時諸説があったが定説はなく5年後の今も謎のままである。

 この謎も「サカ~サタ]の歴史を知る私たちには、

 すでに京都府のサガから

 出雲のサタへ大移動した痕跡の確認によって、

 すべて納得のいく史実になっている。

 出土地の大原・加茂・岩倉も

 全て嵯峨(サガ)と同じ京都市北部の地名と重なり、

 私たちの着眼点の正しさを保証する。

 それはさらに前ページの地図でも、

 三河(愛知県)の小坂井というサカが新たに銅鐸史に加わった。

 これも仏教遺跡であることは動かない。
 
 なぜなら銅鐸出土だけでなく、

 三河という文字は「サカ」への当て字であり

 「サンガ」という発音もある。

 仏教ではサンガは

 「僧伽(サンガ)」と当て字されるパーリ語で、

 「Sanga 僧団・教団」のことである。

 また僧伽の当て字はそのまま「ソガ」でもある。

 蘇我の馬子と完全に重(かさ)なる聖徳太子の、

 倭(ウワイ)国・推古女帝政権が周知の仏教政権だったのと同じく、

 仏教を国教とした徳川氏が、

 この三河出身であることもまた決して偶然ではなく

 弥生ウッタラ政権の遺物だったのだ。

 出雲だけが例外ではありえない。

 『ウッタラ仏教国だった証拠が充満する出雲』

 サカは釋迦族=塞族を意味し、

 張政の官名・塞曹掾史もまた塞族係官を意味していた。

 今それに新たに蘇我が加わったのである。

 すると西端に出雲大社のある島根半島の東端にある

 境港(さかいみなと)が

 重要なサカイであることが決定的になる。

 そこから中の海に入れば目の前に「大根(だいこん)島」がある。
 
 それが大=ウッ・根=タラシ=「ウッタラ之(シ)」島

 だとわかると、

 この県がなぜ「島根」という名を持っているのかもわかるし、

 そこでいま市制が敷かれている大田(おおだ)市もまた

 大=ウッ・田=タ・国=ラ=「ウッタラ」の

 名残りだということもわかる。

 この大田(おおだ)はそのまま「田=ダ=国(ラ)」だから「大国」、

 その主は「大国主」の尊だということになる。

 出雲の大国主は、

 卑弥呼の伝承が伝わった八俣大蛇退治と関連したもののほかに、

 5世紀や7世紀の大国(オオくに)主や、

 紀元前の大国主(ウッタラ)だった

 可能性があるとはっきり見えてきた。

 こうみてくると出雲には『記・紀』の「出雲神話」や、

 『風土記』ていどのものではなく、

 それだけでは解けない歴史が隠れていたとわかる。

 それが今、ウッタラと銅鐸に関わる

 弥生文明に始まることまで解明できた。

 少なくとも「なぜ出雲に銅鐸が…?」ではなく、

 「出雲だから銅鐸があるのは当然だ」というところまでわかった。

 我が国の『建国史』解明は、

 これでまた一大飛躍を遂げ、

 出雲と『出雲神話』は全く新しい研究対象になったのである。

 『我が国の本当の建国は、紀元前3世紀』

 しかし大学講義録30と大学講義録31で

 「出雲の誕生は5世紀よりあと」だとお話しした。

 それは出水(イズン)人が移住した先が

 大阪の和泉(イズン)であって、

 そのときのイザナキの尊が履中天皇で、

 それを継ぐ倭王・興が失政で国を失ったとき、

 その一族が出雲(イズン)まで逃げたから、

 そこが出雲(イズン)になったのだった。

 ウッタラの大国主は仁徳天皇系の亡命者とは無関係である。

 それは当然で、

 弥生時代のウッタラと、

 古墳時代の亡命者が同じであるはずがない。

 同じなのは漢字の当て字だけである。

 同じことは幾人ものイザナキの尊が実在する例でも見た。

 同じ名だから同一人だとしてきた在来の神話学が、

 根底から崩れ去っていることが、

 ご理解になれたと思う。

 では、

 銅鐸とサカ~サタは無関係であろうか?。

 これはすでに見たように切っても切れない関係にある。

 それは紀元前の移住にも仁徳天皇系王朝の大移動にも、

 つねについて回った標識地名である。

 これもまた、

 我が国の建国が弥生時代の早期だったことを証明している。

 神武東征にこだわらなければ、

 水稲の分布からみて初代のウッタラの東遷は、

 紀元前3世紀のアソカ王仏教宣布団派遣直後だとみていいし、

 卑弥呼の夫、仲哀天皇・ソナカをみても、

 同系のアソカ仏教宣布天皇で、

 さらにその伝統を受け継いだのが仁徳天皇朝だったのだから、

 本当の建国と天皇家の皇統譜は、

 在来の説より3世紀、

 さかのぼるのが正しいのである。

 『天武天皇の焚書を告発し続ける銅鐸文化』

 しかしこれと「ヤマト朝廷」が奈良にあったというのとは違う。

 銅鐸文化が始まった弥生中期以前に、

 近畿にヤマト朝廷が実在していたのなら、

 銅鐸は山人族を象徴する聖器だったのだから、

 8世紀以後、確かに存在したヤマト朝廷でも宝器とされ、

 その後継者である天皇家と共に現代まで銅鐸信仰が続き、

 全国の神社・仏閣でも祭られているはずである。

 ところが現実には銅鐸も銅鐸信仰も消滅してしまって、

 ただ弥生遺跡から遺物として出土するだけである。

 それは卑弥呼とその後継者壹與と、

 そのまた後継者の倭国天皇家とも

 全く別の政権・ウッタラ仏教政権が、

 畿内を中心に中国地方から東海にまて実在していた

 史実を明瞭に立証して、

 天武天皇の「焚書(ふんしよ)」の事実を

 明確に告発しているのである。

 視点を変えて記録の面から見ても、

 あれほど倭人の生活を細部まで観察し記録した

 『魏書倭人章』が、

 銅鐸については1字も書かないのは、

 卑弥呼政権も、

 また壹與政権も、

 ともに銅鐸とは無関係で、

 その国の位置が近畿圏ではなく遠く離れていたことの、

 誰にでもわかる動かない証拠である。

 だがこの銅鐸の有無を無視して、

 仮に卑弥呼が奈良で君臨していたとしても、

 3世紀にそこがヤマトと呼ばれたはずがなく、

 ありとあらゆる可能性を捜し求めてみても、

 3世紀にはヤマト朝廷など列島内には

 どこにもなかったという答しか見つからない。

 『銅鐸は単なる唯物(ゆいぶつ)史料ではなく「文献史料」』

 なぜ銅鐸を本講座の総括に使ったか、

 ご理解のことと思うが、

 念のため幾つかお話しして終りを締めくくろう。

 在来の史学では銅鐸は

 発掘考古学の領域に属する唯物史料だと考えて、

 考古学者たちが発表する時代設定などを鵜呑(ウの)みにしながら、

 『記・紀』の外(そと)に置いてきた。

 だがそれが史学最大の手抜かりだった。

 なぜならそれは

 『記・紀』の神武紀元からかなりの世代の天皇治世と

 重なる時代の遺物だからである。

 それが列島の中央を占めた一大勢力の遺品で

 あることは明白なのに、

 誰一人それと天皇家との関係を特定せず放置してきた。

 大和説や畿内説でさえ、

 卑弥呼政権実在の証拠にできず、放置してきたのである。

 だがこの講座ではそれがサカ~サタとの関連で明瞭に見えてきた。

 それはさらに手焙(てあぶ)り形土器が

 同一時代の近隣地域から出土することで、

 インド金属文化の実在が確認できたことから、

 そのインド名からウッタラとの結びつきが明確になったので、

 既知(きち)の文献史料や言語史料と結びつき、

 関連史実が全て読める「文献史料」になったのである。

 それによって、
 
 少し曲解されれば侵略と受けとられる

 神武東征とは比較にならぬ、

 当時の世界では人頼最高の人道哲学だった仏教による政権が、

 すでに列島の中原を治めていた史実を今、

 世界の人たちに知らせることができるまでになった。

 本当にご同慶にたえない。

 『大学講義録30』

 1 淡島は卑弥呼。『古事記』は天武天皇御製
 《淡島は卑弥呼。『古事記』は天武天皇御製
 「淡島は卑弥呼。『古事記』は天武天皇御製

 2 2本立て正史と遣物がある、もう一つの理由
 《2本立て正史と遣物がある、もう一つの理由
 「2本立て正史と遣物がある、もう一つの理由

 3 ヒルコの尊の正体と明(アカル)の官の位置確認
 《ヒルコの尊の正体と明(アカル)の官の位置確認
 「ヒルコの尊の正体と明(アカル)の官の位置確認

 4 天竺日子と結婚した明(アカル)姫=卑弥呼の記録
 《天竺日子と結婚した明(アカル)姫=卑弥呼の記録
 「天竺日子と結婚した明(アカル)姫=卑弥呼の記録

 5 ヤマ神王・位宮と倭人の風習とその記録者
 《ヤマ神王・位宮と倭人の風習とその記録者
 「ヤマ神王・位宮と倭人の風習とその記録者

 6 張政が見たシンドゥ風習
 《張政が見たシンドゥ風習
 「張政が見たシンドゥ風習

 7 高句麗のシンボル玄武はシンドゥ教徒だった証拠
 《高句麗のシンボル玄武はシンドゥ教徒だった証拠
 「高句麗のシンボル玄武はシンドゥ教徒だった証拠

 8 爾支の真相と景行天皇史を語る大分(おおいた)の名
 《爾支の真相と景行天皇史を語る大分(おおいた)の名
 「爾支の真相と景行天皇史を語る大分(おおいた)の名

 9 卑弥呼と位宮、宗教対立の根拠と実態
 《卑弥呼と位宮、宗教対立の根拠と実態
 「卑弥呼と位宮、宗教対立の根拠と実態

 10 戒律が二転三転させた壹與の性別
 《戒律が二転三転させた壹與の性別
 「戒律が二転三転させた壹與の性別

 11 壹與と位宮の悲劇=クマソ退治の真相
 《壹與と位宮の悲劇=クマソ退治の真相
 「壹與と位宮の悲劇=クマソ退治の真相

 12 「倭国史」を活写している「サカ~サタ」
 《「倭国史」を活写している「サカ~サタ」
 「「倭国史」を活写している「サカ~サタ」

 13 「神功皇后妃」にもミズハワケの神
 《「神功皇后妃」にもミズハワケの神
 「「神功皇后妃」にもミズハワケの神

 14 坂井~佐多間は壹與時代。橿日と小山田の位置
 《坂井~佐多間は壹與時代。橿日と小山田の位置
 「坂井~佐多間は壹與時代。橿日と小山田の位置

 15 坂井~佐多間のサカ~サタは247年のもの
 《坂井~佐多間のサカ~サタは247年のもの
 「坂井~佐多間のサカ~サタは247年のもの

 16 「サカ~サタ証拠」をもたない「神功皇后紀」
 《「サカ~サタ証拠」をもたない「神功皇后紀」
 「「サカ~サタ証拠」をもたない「神功皇后紀」

 17 超文化財「宇佐」の秘密
 《超文化財「宇佐」の秘密
 「超文化財「宇佐」の秘密

 18 佐賀の関と佐田半島は仁徳天皇の遺跡
 《佐賀の関と佐田半島は仁徳天皇の遺跡
 「佐賀の関と佐田半島は仁徳天皇の遺跡

 19 仁徳天皇の兎はパーリ語のササの訳
 《仁徳天皇の兎はパーリ語のササの訳
 「仁徳天皇の兎はパーリ語のササの訳

 20 大阪湾にはナゼ?サカ~サタがないのか?
 《大阪湾にはナゼ?サカ~サタがないのか?
 「大阪湾にはナゼ?サカ~サタがないのか?

 21 意外な原因=倭王・興を除外した『記・紀』
 《意外な原因=倭王・興を除外した『記・紀』
 「意外な原因=倭王・興を除外した『記・紀』

 22 「倭の五王」治世年の文献別比較
 《「倭の五王」治世年の文献別比較
 「「倭の五王」治世年の文献別比較

 23 巨大古墳の築造期と高句麗倭国時
 《巨大古墳の築造期と高句麗倭国時
 「巨大古墳の築造期と高句麗倭国時

 24 興の愚行の記念物・巨大古墳群と「詫(わ)び・寂(さ)び」
 《興の愚行の記念物・巨大古墳群と「詫(わ)び・寂(さ)び」
 「興の愚行の記念物・巨大古墳群と「詫(わ)び・寂(さ)び」

 25 対岸だった堺と佐太。それ以後の乱れ
 《対岸だった堺と佐太。それ以後の乱れ
 「対岸だった堺と佐太。それ以後の乱れ

 26 大阪平野の古地理図
 《大阪平野の古地理図
 「大阪平野の古地理図

 27 「言語復原史学」を知っていた元明女帝たち
 《「言語復原史学」を知っていた元明女帝たち
 「「言語復原史学」を知っていた元明女帝たち

 28 倭王・武の名乗りの歴史と守口の佐太の年代
 《倭王・武の名乗りの歴史と守口の佐太の年代
 「倭王・武の名乗りの歴史と守口の佐太の年代

 29 百舌鳥耳(モズミ)原皇朝の滅亡と佐太大神の関係
 《百舌鳥耳(モズミ)原皇朝の滅亡と佐太大神の関係
 「百舌鳥耳(モズミ)原皇朝の滅亡と佐太大神の関係

 30 和泉(イズン)人が逃げ込んだから出雲(イズン)が生まれた
 《和泉(イズン)人が逃げ込んだから出雲(イズン)が生まれた
 「和泉(イズン)人が逃げ込んだから出雲(イズン)が生まれた

 《古代オリエント
 「古代オリエント

 《古代メソポタミア
 「古代メソポタミア

 《シュメール・シュメル
 「シュメール・シュメル

 《ウバイド
 「ウバイド

 《倭人(ウワイト)
 「倭人(ウワイト)

 《魏書倭人章
 「魏書倭人章

 《日本書紀・古事記
 「日本書紀・古事記

 《三国史記・三国遺事
 「三国史記・三国遺事

 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
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 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
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 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

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