出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
63頁
しかも、
その難波さえ10世紀になってもまだ実在性は疑わしいのである。
10世紀の国家の法令である延喜式と、
同時代に源の順(したがう)が
書いた百科辞典の「倭名類聚鈔」はともに、
難波を書いていない。
その摂津国の項には難波も浪速も、
どこにも見当らないばかりでなく、
大阪市域にあたる地名は
住吉、百済、東生、西生(成)の四郡しかない。
しかもこの後の二つは後世の東成、西成二郡と
同名であることはすぐわかるが、
<ナリ>を生という字で表わしていることは、
中央部の半島に沿って東西に
新たに生れた土地であることを示している。
従ってそれ以前には他の二郡しかなかったことになるが、
その一つの住吉さえ、
現在の住吉区の大半は水底にあり、
むしろ現在の東住吉区が半島の南端を占めていたことがわかる。
ということは、
10世紀までの大阪市の中心は百済であったということになる。
当然のことながら、
孝徳天皇の皇居があったとされる
長柄豊崎の宮に比定されている地域は、
その時代には天の橋立のような砂州にすぎない。
だから延喜式も源順も、
ここに二大皇居があったなどということは無視している。
事実存在したものなら特筆大書し、
地名も当然、百済などということにはならなかったのであり、
また彼等は、さびれた半島状の土地の実物を知っていたのである。
はじめから『記・紀』とは関係づけることさえ考えていない。
このことは、さらに後世の江戸時代に入っても、
大阪の市域が、
ごく小さなものであった事実を知ると
疑がう余地がなくなるのである。
大阪が難波京らしい相貌をもつようになるのは
欧州大戦ごろからで、
それでも筆者が育った頃には
大阪城の周辺から東は田畑と荒地の続く干拓地に過ぎなかった。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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