2010年5月17日月曜日

大阪ではなかった仁徳・孝徳朝(2)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    63頁

  しかも、

 その難波さえ10世紀になってもまだ実在性は疑わしいのである。

 10世紀の国家の法令である延喜式と、

 同時代に源の順(したがう)が

 書いた百科辞典の「倭名類聚鈔」はともに、

 難波を書いていない。

 その摂津国の項には難波も浪速も、

 どこにも見当らないばかりでなく、

 大阪市域にあたる地名は

 住吉、百済、東生、西生(成)の四郡しかない。

 しかもこの後の二つは後世の東成、西成二郡と

 同名であることはすぐわかるが、

 <ナリ>を生という字で表わしていることは、

 中央部の半島に沿って東西に

 新たに生れた土地であることを示している。

 従ってそれ以前には他の二郡しかなかったことになるが、

 その一つの住吉さえ、

 現在の住吉区の大半は水底にあり、

 むしろ現在の東住吉区が半島の南端を占めていたことがわかる。

 ということは、

 10世紀までの大阪市の中心は百済であったということになる。

 当然のことながら、

 孝徳天皇の皇居があったとされる

 長柄豊崎の宮に比定されている地域は、

 その時代には天の橋立のような砂州にすぎない。

 だから延喜式も源順も、

 ここに二大皇居があったなどということは無視している。

 事実存在したものなら特筆大書し、

 地名も当然、百済などということにはならなかったのであり、

 また彼等は、さびれた半島状の土地の実物を知っていたのである。

 はじめから『記・紀』とは関係づけることさえ考えていない。

 このことは、さらに後世の江戸時代に入っても、

 大阪の市域が、

 ごく小さなものであった事実を知ると

 疑がう余地がなくなるのである。

 大阪が難波京らしい相貌をもつようになるのは

 欧州大戦ごろからで、

 それでも筆者が育った頃には

 大阪城の周辺から東は田畑と荒地の続く干拓地に過ぎなかった。


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書


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