2010年5月21日金曜日

神宮建築の原型(1)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    125~126頁

 
 「図:家屋文鏡」(加治木原図)

 (奈良県佐味田宝塚古墳出土=宮内庁諸陵寮蔵)

 有名な家屋文鏡(4世紀頃)に見る

 弥生期前後の建築物には4つの建築図が見られるが、

 その4つとも棟端に千木をもっている。

 またその建築様式が後述のものと

 多くの共通点をもっているのである。

 これでわかるのは、

 言語と文明だけがセットになってはいって来るという事実と、

 人間自身が言語と文明を携えてやってくることがある、

 という事実の、

 二通りがあるということである。

 その差は何であろうか。

 それは、文明を伝達する手段としての言語を、

 人間自身が運ぶ必要があった時代と、

 文字や電波または録音や映画という媒体のある時代との相違だ、

 ということである。

 弥生期の日本には文字はほとんど知られていなかった。

 何故なら、数多く出土する土器や農機具類のどれにも、

 全く文字らしいものの痕跡がみられないからである。

 土器に文字を刻んで焼くことはごく容易なことなのに、

 全くそれをしなかったのは、

 土器製作者の大多数は文字を知らなかったという

 動かしがたい証拠なのである。

 では、

 家屋文鏡にみる建築様式はどこの文明に属するものであろうか。

 これは現在では広くマレー語圏に分布するほか、

 北鮮から満洲にかけても実在したという

 明治10年代の記録がある。

 (梅原末治氏書「佐味田及新山古墳研究」)

 しかし新羅が九州から朝鮮半島へ北上したという事実を知り、

 また拙著「異説、日本古代国家」をお読み戴いた方は

 高句麗も同じ南九州から北鮮を超えて満州にまで

 進出したという知識をお持ちであるから、

 今さら少しも不思議でも何でもない。

 いや、むしろ気候や地理条件の全く異なる地域に住んでも、

 人々はその習慣を変えず、

 現代に至るまで、

 遥かな土地の習俗を維持し続けるものだという点に、

 感銘を覚えるのである。

 これと全く同じ感銘は、伊勢、出雲を始め、

 各地に鏡座する神社建築からもうける。

 これらの建築様式が家屋文鏡中の宮殿とごく近いことは

 一見しただけでわかるが、

 いまインドネシアやタイの農村を族行すれば、

 この家産文鏡のそれよりも、

 さらに伊勢神宮的な特徴を備えた神社や住居が

 実在しでいることを実見できる。

 もちろん千年をはるかに超える隔離と、

 文化進展のちがいが、

 多少の変型を与えてはいるが、

 それらが同一起源のものであることと、

 その分離の時代が弥生期をさかのぼらないことが

 容易に観察できる程度の変異しかない。


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

0 件のコメント:

コメントを投稿