2010年5月25日火曜日

牛と角と雷への崇敬

 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    134~136頁


 
 「写真:シバ大神の神像」(今村甫氏蔵)

 シバ神の像はヒンヅー教の各派によって解釈が異なり、

 また仏教にも大自在天としてとり入れられており、

 その像も多くの種類がある。

 しかしそのいずれもが頭骸骨を連ねたネックレスを

 かけていることが共通している。

 これは<御頭祭>が示すものと同一の考えに基くもので、

 その威力を象致しているのである。

 写真の像はその妻<カリー>を伴ったもので

 北インド神像の形式を備えている。

 シバの表記はサンスクリットとインドシナでは

 ジャワでは

 マレー語圏ではまたは

 ボルネオではと変わる。
 この<ニワ>はこを<ミ>と発音する沖縄へ入ると

 <ミワ>と発音される。

 <三輪の大神>は<シバ>神を意味する。

 またインドでは<シバ>は<ジャッカル>をも意味する。

 これは日本では<狼>にあてられたことが、

 <オオカミ>という和名で証明されるのである。

 また中国地方にあるイザナミ伝説地が<ヒバ>山と呼ばれ、

 また志波彦神社(宮城県の元国幣中社)そのほか

 <シバ>神を祭るものはかなりの数にのぼる。

 沖縄では<庭><ニワ>を<ミヤ>。

 <新><ニイ>を<ミイ>(<新婿><ニイムコ>→<ミイムーク>など)。

 <睨みくらべ>を<ミイクウミー>などと、<ニ>を<ミ>と発音する。

 またこれまで語意も語源も不明とされてきた

 「ミシャグチ神」とは何か。

 これもパーリ語で読んでみると一遍に謎はとける。

 <シバ神>の故郷インドには今は死語になった

 パーリ語という言語があった。

 それによると<シバ>とは<幸福>、<吉祥>を意味する。

 これにはまた<平安>、<安泰>の意味も含まれている。

 <シアワセ>という日本語と、この<シワ>も似ているが、

 次のように熟語になる。

 「シバ・ガミ・マッガ」。

 これを直訳すると<安全の法>、<平安への道>ということになる。

 これに対して「安全を護る」「守護する」はパーリ語で<グッチ>。

 <供>、<従者>は<ミッサ>という。

 「ミッサグッチ」とは<守護する供人>ということであり、

 <ミシャグチ>神とは本来<シバ神>を

 <守護する供神>のことだったのである。

 とすると、諏訪の神使が各村にいる<ミシャグチ>神を

 召集して神事を始める理由も

 初めて理解できるのである。

 またインドでは<牛>が神聖視されている。

 これは牡牛が<シバ>神の顕現であると信じられてきたためで、

 牛や角が聖なるものの象徴とされるのである。

 このことが理解できないとインドからマレー語圏、

 さらに我が津々浦々に祭られる神社から伊勢神宮に至るまでの

 「千木」の神聖さが不明になるのである。

 その<ヌガンディ>の名をもつ<牛の像>は実は我が国にも

 古くから祭られていた。

 それは現在でもなお各地で見られる。

 ほかでもない<天神様の牛>である。

 世俗には菅原道実が太宰府へ流された際、

 彼を運んだ牛車の牛であるとされている。

 しかしこれは余りにも不合理な説明である。

 供をしたのは牛だけではないし、

 流人が船でなく牛車に乗って福岡まで行ったというのもおかしい。

 よく考えてみると、

 天神様の牛には全く必然性が無いことがわかるのである。

 これは理由ははっきりしている。

 天神様というのは菅公よりはるかに前から祭られていた神で、

 当時すでに祭神の不明になっていた社に、

 道実を合祀しただけのことなのである。

 もうおわかりのように<天(チヌ)神>とは<角(ツノ)神>であり、

 <牛>が本体あったのである。

 そして同じ京都の大氏神(うじがみ)は葵(アオイ)祭で

 名高い賀茂社であるが、

 その祭神中の氏の祖は、<加茂建角身命>であり、

 その孫神は<賀茂別雷命>である。

 <角>と<雷>がセットになっていて、

 天神様の先祖を証明しているのである。

 「コラム:伊勢はシバ大神の名」

 <シバ>神はインドでは、

 Is、Isa、Isana、(イス、イサ、イサナ)という通名で

 呼ばれている。

 <イサ>の大神または<イサナ>大神が、

 鹿児島弁や関東弁式に語尾の

 発音して<イセ>の大神となったことは疑問の余地がない。

 また仏教化して(マハ・スワラ)とも呼ばれている。

 直訳すれば<マハ>は<大>。

 <スワラ>は<日や光または声を発する者>という意味である。

 これに漢字をあてれば諏訪羅(スワ国)。

 命令を発する者「命<ミコト>」である。

 それは同時に<日の国>、<日の神>でもある。

 さらに伊勢国風土記は、

 この2つの地名を結びつける重要な役割を果たしている。

 <国津神>の<伊勢津彦>は神武東征の時、

 <天日別命>に国譲りを迫られて東に去り、

 割注に「今信濃の国に来り住む。」とある。

 彼は<地名>と<空っぽの神宮>を残して行ったのである。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書


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