出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
62頁
これまで難波とは現在の大阪市のことと決められていた。
だが古い記録を正確に読むと、この長浜以外にも、
幾つもの難波が実在したことが明らかになってくる。
『記・紀』の謎の中には、
こうした地名による混乱が沢山含まれているために、
奇妙な結論に導びかれたものが多いのである。
しかし、まだ信じられない方のために、
科学的に立派な研究があることを御紹介しておこう。
畏友、梶山彦太郎氏が市原実氏との共同研究による
「大阪平野の発達史」を
地質学論集の第七号として発表された。
それは埋蔵されていた貝や木など
生物の遺体を調べることによって、
そこが海であったか淡水であったか陸であったかということと、
放射性炭素14の計算によって、
その時代を正確に測定する方法で、
大阪平野の歴史を調査したもので、
地質専門家の市原氏が地層構成の解明を
担当されて完全なものになっている。
それによれば図で示した通り、
大阪市の大半は古墳時代前期にはまだ水底にあって、
かって仁徳天皇が仁政を施したとされる
難波の国は想像の産物でしかなく、
ごく狭隘溢な半島でしかなかったことが明らかになっている。
「図:水底にあった難波」(加治木原図)
《梶山彦太郎・市原実共著「大阪平野の発達史」
(1972年12月)地質学論集第7号》による。
3世紀から5世紀にかけての大阪市域は殆んどが水底にあり、
僅かに大阪城附近まで伸びた高台が半島を形成、
それから北方へ次第に砂州が発達しつつあった。
後世の百済と住吉の一部(現在の東住吉)があるばかりで
東生、西生はまだ生まれていない。
中心は明らかに首済であり、
百済大寺とは四天王寺の前身だということになる。
○現存の百済の位置。■四天王寺の位置。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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