2010年5月16日日曜日

大阪ではなかった仁徳・孝徳朝(1)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    62頁

  これまで難波とは現在の大阪市のことと決められていた。

 だが古い記録を正確に読むと、この長浜以外にも、

 幾つもの難波が実在したことが明らかになってくる。

 『記・紀』の謎の中には、

 こうした地名による混乱が沢山含まれているために、

 奇妙な結論に導びかれたものが多いのである。

 しかし、まだ信じられない方のために、

 科学的に立派な研究があることを御紹介しておこう。

 畏友、梶山彦太郎氏が市原実氏との共同研究による

 「大阪平野の発達史」を

 地質学論集の第七号として発表された。

 それは埋蔵されていた貝や木など

 生物の遺体を調べることによって、

 そこが海であったか淡水であったか陸であったかということと、

 放射性炭素14の計算によって、

 その時代を正確に測定する方法で、

 大阪平野の歴史を調査したもので、

 地質専門家の市原氏が地層構成の解明を

 担当されて完全なものになっている。

 それによれば図で示した通り、

 大阪市の大半は古墳時代前期にはまだ水底にあって、

 かって仁徳天皇が仁政を施したとされる

 難波の国は想像の産物でしかなく、

 ごく狭隘溢な半島でしかなかったことが明らかになっている。

 「図:水底にあった難波」(加治木原図)

 《梶山彦太郎・市原実共著「大阪平野の発達史」

  (1972年12月)地質学論集第7号》による。

 3世紀から5世紀にかけての大阪市域は殆んどが水底にあり、

 僅かに大阪城附近まで伸びた高台が半島を形成、

 それから北方へ次第に砂州が発達しつつあった。

 後世の百済と住吉の一部(現在の東住吉)があるばかりで

 東生、西生はまだ生まれていない。

 中心は明らかに首済であり、

 百済大寺とは四天王寺の前身だということになる。

 ○現存の百済の位置。■四天王寺の位置。


 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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