出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
143~146頁
以上を見ると、朝鮮の人々は<大国主>に悪感情をもっていず、
上代語とパーリ系の人々が
朝鮮語をわざわざ曲解したということになる。
どれが語源であったかほハッキリしているから、
それからどう変化したか、
時間帯を考えてみて戴くのも興味があろう。
では<伊都国>は、当時いったいどこにあったのであろう?
原文は「末盧国から東南へ五百里で<伊都国>に到る」とある。
真相を知るには、
① 末盧国の位置。
② 国と書かれたものは国境線か中心政庁の所在地か。
③ 東南という方角は果して正しいか。
④ 五百里の正確なkm換算。
⑤ 伊都国の位置。が明確にならねばならない。
幸い私たちは
④については動かぬ知識をもっている。
五百里は27.82km、約28kmだ。
と確信をもって答えられる。
②もそう難かしくない。
倭人伝の国と国の距離が百里という記事は、
僅か5.5kmだが
国境線のことでないことを明示している。
国境線が当時あったとしても、
それは隣国との問では一本しかなく、
百里もの幅をもっていたとは考えられない。
これはまた当時の中国文献が
すべて現代と同じく政庁所在地を基点とする習慣で
統一されていることと一致する。
次に③を考えてみょう。
御存知の通り、これまでの邪馬臺論は、
すべて伊都を糸島に、奴を博多に決めている。
本書冒頭で見て戴いた図の通り
倭人章の原文の方角に合うものは一つもない。
この<奴>や<不弥>から南は陸行でとても水行できないし、
またこの辺りから船に乗るのなら、
一体なぜ海流にさからって末盧へ上陸し、
前を進む者さえ見えないような悪路を重い旅行道具を担いで、
30km近くもあるいはそれ以上も歩き続ける必要があるのか?
それより、
海流に乗りながら楽に壱岐から博多へなぜ直行しないのか?
実に理解しょうもない、
常識はずれのことが行なわれたことになり、
これは倭人章中でも最大の謎だというほかない。
果して当時の<倭人>たちはそんなにも野蛮で、
現代の邪馬臺論者たちのように、
そんな不合理なことが平気だったのであろうか?
当時の倭人の手で壱岐~対馬間の距離が
誤差なく測定されていたことを知る私たちには、
彼等がそんな愚かな事をしたとは信じられない。
その測量は三角または天測法を高度に使いこなせないと
不可能である。
天測儀やトランシットはもちろん、
望遠鏡もない時代なのである。
それは現代よりも更に難かしい仕事だったはずである。
では愚かだったのは魏人の方か?
中国には周代のはじめ、
すでに周公が天文台を作ったり前漢までの紀元前に精密な暦が
天測をもとにして作られ、
次々に改良されて行った事実を知る私たちには、
3世紀の魏人が天測を知っていたからといって、
別に驚ろく程の事でもないのである。
<倭人>、<魏人>ともに高度の知性をそなえた人々で
あったことは間違いない。
とすれば、未盧で一たん上陸々行して、
また船に乗って旅を続ける、というのは、
どうしてもそうするほかない合理的な理由が
あったと考えるほかない。
それは何故か?
と想像に走るようでは駄目である。
なぜなら、この問題には答えに直結する条件が、
ハッキリと明示されているからである。
それはどうにでも読めるようなものではなく、
動かしようのない限定条件なのである。
① 末盧から、
② 東南へ、
③ 五百里で、
④ 伊都に至る。
⑤ そこか、または<不弥>が港で、
⑥ 南へ、
⑦ 水行できる場所。
と指定してあるからである。
「図:ただ一つのコース」(加治木原図)
対馬→壱岐→唐津というコースは、
はっきり、ただ一つのコースを目ざして直進している。
博多や宇佐や大和へ行くのなら、
わざわざ唐津へ上陸する必要はない。
ことに対馬と壱岐の間は魔の潮流が渦巻いている。
大和へ行くのならそれを避けて、
逆に潮流を利用しながら倍以上の速度で航海できるのである。
倭人章のコース記事は
宇佐、大和両説の無茶なことを立証しているのである。
対馬海流(分流)日本海流(黒潮)
これだけ、はっきり書いてくれてあるのであるから、
その位置を見つけるのは、ごく簡単なことである。
壱岐から船が着いた所は間違いなく九州北岸で、
それも壱岐から55kmの範囲内である。
そこから東南28kmの所に、
南へ船出できる水路がある所は、
たった一か所しかないからである。
間違いたくても間違いようのないその場所は、
もうお気づきのように、有明海の北部である。
佐賀と長崎の二県が有明海をかかえこむようにして
回廊を形づくっている。
そこだけが二つの海を結ぶ最短距離であることは、
地図をチラツと見ただけでわかる。
そしてその距離がおよそ30kmぐらいということもわかる。
④以外の6条件を完全に満たしている。
この事実がわかると、巨大な謎に見えたものが、
吹きとんでしまう。
そればかりかさらに新らしい真相を話してくれる。
自的は有明海を南下することであり、
そこへは壱岐から西まわりに船で進むことが
できなかったという事実である。
何故か。
それは西南方からすさまじい勢いで北上している
黒潮のためである。
それにまともに向っては非常に難航し、
あるいは続行不能な船であったという事実である。
半島から、島伝いに九州北岸へは来れても、
西海岸沿いには南下できない、
という二つの条件の間に、
当時の船を復原するための貴重な証拠が詰っているのである。
あわや倭人章最大の謎と見えたものは
一瞬にして泡沫のように消え去ってしまった。
しかし、それよりも大きい謎を残した。
何故、多くの学者と自任した人々が、
こんな簡単な事実さえわからなかったのか。
という……。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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