私たちは初め、
別に日本や三韓の古代国家像を求めようという目的で
スタートしたわけではなかったのに、
『記・紀』の神名や人名を教材として「推理」とは、
どうあるべきかを追求して行くうちに、
それらの国々が誕生した当時の真相を、
かいま見ることになってしまった。
それによって千年を超えて、
なお解けることのなかった謎が、氷のようにとけさり、
お伽ばなしの一種とされた神話が、
歴史の変型であったことも知ることができた。
これで、推理というものの威力がどんなものであるか、
充分証明されたと思う。
その結果が、錯覚や他人のソラ似でないことも、
ダメ押しで確認できたはずである。
専門書や論文でないという本書の性質上、
まだまだ大量にある証拠を御覧に入れられないのは
残念なような気もするが、ダイジェストこそ、本書の生命である。
これ以上クドクなっては、
あなたはお疲れになると思われるからである。
それに冒頭にお考え戴いたように、
本書の結果を「記憶」することは、
本書の目的ではなかった。
しかし副産物としては、
解けた謎は大きかったと言っていいと思う。
これまでは実に様々な想像説が、
日本の建国をめぐつて発表されて来た。
そのうちでも本書の結果と対照的なものは
「北方騎馬民族説」であった。
それは『天孫族は朝鮮半島経由で南下して来たのではないか?
それが日本の建国者だつたと考えられる』という想像で、
戦後の日本古代国家観に大きな影響を与えたが、
私たちが追求した結果は全く逆であって、
日本だけでなく、
のちには半島を占めた三韓、高麗までもが、
沖縄経由で、鹿児島県に発生し、
半島へ北上したという証拠が、続々と見つかったのである。
日鮮建国時代の人々の流れは、北から南へではなく、
南から北へと、
旧説とは全く逆の方向をとっていたことが、
はっきりと証明されたのである。
その時間帯を考えると、
魏志東夷伝などで知ることのできる半島状勢は、
まだ統一初期であつて、
三韓の原型がようやく芽生えはじめた時代の様相を呈している。
馬韓、辰韓、弁韓(卞韓)の区別はあるが、あるいは混住し、
あるいは国と国が入り乱れ、
辰韓は馬韓の統制下にあって、
その王は馬韓人が兼ねている、と明記してある。
ただひとり高句麗だけが、
はっきりした地域を占めていたようにとれるが、
それも先の三国史記地理誌などによると、
「始め高句麗と百済は、
国土が犬の牙が噛み合っているように錯綜していて」とあり、
やはり分裂によって二国が生れたことを裏書きしている。
ところが、その同時記録である倭人伝をみると、
こちらはすでに統一が完成していて、
邪馬台国を中心に、
三百万を超えると計算される大人口を擁している。
ということは、
陳寿が記録した邪馬台国当時(魏時代)には、
倭はすでに沖縄ではなく、
九州に存在しており、
三韓は半島に移動している、と考える他ない。
とすれば、本書で突きとめた九州三韓時代は、
邪馬台の九州統一以前であり、
『魏書倭人章』に先行する時代であり、
それは少くとも西暦107年の宮之城王帥升時代、
あるいはそれ以前のものだということになる。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
0 件のコメント:
コメントを投稿