出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
79~83頁
霧島と山口を結ぶ線上には九州山脈、
九重山、久住山といった山なみが連なっている。
霧島には高千穂峰があり、
天孫降臨の段に「竺紫日向之高千穂之久士布流多気」に
天降った(記)。とある。
この久士布流と九重、久住は<クシフ>が一致する。
またこれまで余り気にも止められていないが、
九州もまた<クシフ>に対する当て字ということができる。
これは霧島の<クシフ>から次第に山脈伝いに
北上していった人々が生み残したものだとみていい。
九州はこれまで九ケ国あるから九州と考えられてきた。
しかし、
九州という地名は永く筑紫が使われていたあとのものである。
また九ケ国は、無理をして九つに分けた跡が歴然としている。
その前に、建日、白日、豊、久士比の名の通り
五分されていたことは御承知の通りである。
ただお気づきかどうかこれらの名に各県名を宛てた時、
宮崎だけがなかった。
そして久士があとに残った。そこで、この二つを対比してみると、
久と宮はともに<キウ>、<ク>という音で一致している。
士と崎は<シ>と<キ>であるから支という字を使えば
<クシ>とも<クキ>とも発音される。
この二つの名は本来同じものだったのである。
では<クシ>または<クキ>とは一対どちらが本来のもので、
何を意味するのであろうか。
それは13世紀後半に書かれた
『塵袋』の中に引用されたために残った
日向国風土記の一節が謎ときをしてくれる。
その巻二の中に、
「昔カサム別という人が韓国へ行って
この粟を取って帰って植えた。
だから槵生(クシフ)村という。
風土記に曰く、俗語で栗のことを<クシ>という。
すれば韓の槵生の村というのは、
韓の粟の村のことか、とある」という内容のものである。
(原文は古文であるから訳してある)。
これでみるとかって槵生という村が実在し、
古くは<クシ>とは栗のことだったことがわかる。
アイヌ語では今も栗の<イガ>を<クシ>といっている。
<イガ>は針状をしており、
私たちの使う櫛という言葉と照合すると、
どちらも針が並んでいて、
もともと近縁のことばだったようにみえる。
また朝鮮語では釣針のことを<ナクシ>という。
<ナ>はサカナの<ナ>で、<サカナ>は酒(サカ)の魚(ナ)のことで、
魚だけの場合は<ナ>だったことは、どんな古語辞典にも出ている。
だからこの朝鮮語は日本の古語とアイヌ語との混血の観がある。
これらを総合してみると結論は、<クシ>とは針状のもののことで、
私たちが今使う串とほとんど同じものだったことが
わかるのである。
<クシフ>は栗の生えた所を意味することが、
これで充分にわかった。
では<クシフル>になっているのはなぜか。
これは紀の一書に槵触峯という用字があるのですぐとける。
<フ>に対する当て字に、
頭音使用のつもりで触の字を使ったものが、
<フル>と全音「フル(英語)」に
読まれてしまったということなのである。
ではなぜ栗が生えているということが、
特筆大書されて次々に地名として
いまだに残っているのであろうか。
20世紀に入っても多くの国々で餓死者が続出しているのである。
古代の人々にとって、
粟や椎の実などは重要な食糧であり天の恵みであった。
ことに農耕を知らない山地民にとっては、
それは命の程(かて)であった。
それらを求めて山を歩きまわった人々は
豊かな産地を発見して驚喜し、心をやすめたに違いない。
<クシフ>が地名として重要な位置をしめたのは
当然のことといえる。
ではその山地民とはどういった人々であったか。
それは<イガ>を今も<クシ>という人々、
アイヌの人々に近い人たちであるとして大きな間違いはない。
何故ならアイヌの人たちは熊狩りの習慣が示すように
狩猟者であり、農耕民ではなかったことと、
毛人という名が上代には<エミシ>と発音されて
蝦夷と同語であったことなど、多くの証拠を残している。
その人々がどうなったかという運命については、
本書以外でお話しするほかないが、
私たちが串という言葉をもち、
朝鮮の人たちが<ナクシ>という名詞を伝えているのは、
同じように毛人の血もまた混り合って、
今ではただ国境や生活環境が新らしい区別を
生み出しているに過ぎないことを
物語っているとすべきであろう。
この<クリ>は鹿児島方言では<クイ>と聞こえる発音になる。
この方言は<ラ>桁が母音だけになる特徴をもっている。
これは日本の古代史を手がける方には
重要な手がかりになるものであるから、
憶えておいて戴きたい。
古い言葉の食らう。
食ろうが、食おうに変ったのもこの方言の影響なのである。
だから、いま姶良郡の北部にある栗野町はクイノ町と発音される。
鬼という字は日本式漢音では<キ>であるが、
北京音では<クイ>で、
倭人伝の鬼奴国は北京音で読めば栗野に一致する。
また<キ>は沖縄弁では毛であり<キリシマ>の<キ>と一致した。
だから霧島の山ふところに抱かれたこの町は、
毛人とは無関係ではあり得ず、
その地名を文字を変えれば毛野になるものであったことになる。
毛野はのちには上毛野、下毛野と関東に大きく拡大して
群馬、栃木の二大国になったが、
その初期はこの山間一帯に過ぎなかった。
しかし、いまも関東には古名を止めた大きな遺物が、
この町との関係を証言し続けている。
鬼怒(キヌ)川という名は、沖縄発音と、
鬼奴国という陳寿の当て字との双方を巧まずして
今に伝える貴とい文化財なのである。
それはまた、
神武天皇の幼名「稚三毛野命」や、
「狭野命」とも結びつく、
稚は別と同じものに対する当て字の違いに過ぎず日子を意味する。
三は御の字と同じであるから、
この毛を<キ>からさらに沖縄弁化して<チ>と発音してみると、
御毛野は<ウチヌ>すなわち御真が同語だという可能性がある。
三毛野の命は文字をかえれば御真津命になるからである。
これは手がかりに過ぎないが毛人とは何者かが
次第に判明してきたと思う。
狭野は、姶良郡一帯が襲の国であったから、
蘇という文字によって、
<ソ>とも<サ>とも読まれたものに過ぎない。
名詞復原(図表3) 要素 日本式漢音 沖縄方言 南九州方言 中国語北京音
霧 島
┌┐
霧之国 松浦 チン─珍─ウズ 機 ─ 綿
│ │ │ │ │
久士布流 霧 末盧 ? ウヅマサ ─ ハタ─ ワタ
│ │ │ │ │ │ │
久住 槵触 キリ モウロ ウシ <太秦> ─ タバタ 大海
│ │ │ │ │ │ │
九州─ 九重 ─ 槵生 毛利 ─ 毛国 大人─ 大秦 = 海神─渡津見
│ │ │
串木野─ クシッノ ─ 槵の 毛人 ウチヌ 大角 ウシヌ ─ 牛の─ 牛津
│ │ │ │ │ │
高句麗 ─句麗 ─ 栗野 毛奴 沖縄 内国─ 大日の 牛国─ ソナ
│ │ │ │ │ │ │ │
高麗 ─ 呉 ─ 鬼怒 ─ 毛野 ウチナワ クシマ─大日国 ─ ウシマ─大島
│ │ │ │ │ │
│ 神武─ 御毛野の─御毛野ガ─オキナカ─息長 オヒラ ─ 大平─オシラ
│ │ │ │ │ │ │ │
コマ │ 任那 ─ ミマ奴 ウチヌツ 日奈久 阿日羅 ─ 阿平─ 姶良
│ 御 │ │ │ └┘ │ │ │
駒─牧─?─ 御間城 ─ ミマチ ─ 御真津 日国 日羅 ─ カラ─ 韓
│ │ │ │ │ │ │ │
│ 御 │ │ │ └┘ │ │ │
駒─牧─?─ 御間城 ─ ミマチ ─ 御真津 日国 日羅 ─ カラ─ 韓
│ │ │ │ │ │ │ │
小馬 日 ミマカキ─ 目目微 ミマツ 日の国 シラ ─ シロ─ 八代
│ 子 │ │ │ │ │ │
古馬 日 弥馬獲支─ 弥馬升 ─ ミマス 日本 始羅 ─ 白 ─白縫
└┘ 日 │ │ │ │
忍熊 出 弥弥那利 ─ 耳成 ビバス 肥本 新羅 = シラヌヒ─不知火
│ 見 │ │ │ │
オシクマ │ 美美津 ─ 弥弥 日葉酢 熊本
│ 御 │ │ │ └┘ │ │ │
駒─牧─?─ 御間城 ─ ミマチ ─ 御真津 日国 日羅 ─ カラ─ 韓
│ │ │ │ │ │ │ │
小馬 日 ミマカキ─ 目目微 ミマツ 日の国 シラ ─ シロ─ 八代
│ 子 │ │ │ │ │ │
古馬 日 弥馬獲支─ 弥馬升 ─ ミマス 日本 始羅 ─ 白 ─白縫
└┘ 日 │ │ │ │
忍熊 出 弥弥那利 ─ 耳成 ビバス 肥本 新羅 = シラヌヒ─不知火
│ 見 │ │ │ │
オシクマ │ 美美津 ─ 弥弥 日葉酢 熊本
│ │ │ │ │
大日日─阿日日─日日津 ─ ヒビツ ─ヒビス 熊曽
│ │ │
オシヒ ─ 襲 +シシの=ソジシノ 日々子 熊襲
│ ∥ │
大シ美─ 忍海 膂宍の空国 ヒビコ
│ ∥ │
大隈 ─ オオスミ ─ 大角 カラクニ+韓国 ヒミコ
│ │ │
大隈 ツノ <卑弥呼>
│ │ ↑
熊 ? 《謎の語源》
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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