2010年5月26日水曜日

邪馬臺国と山代国

 出典:加治木義博:言語復原史学会
    邪馬臺国の言葉
    コスモ出版社
    137~138頁



 「写真:インドの山鉾巡行」

 インドを始めヒンドゥ教徒の住む地方では、

 至る所で祇園や八幡社のものそっくりの

 山車(ダシ)の類が見られる。

 日本のものを仏教伝来以後のものと想像するのはあやまりで、

 これは<シバ信仰>と共に入っていたのである。

 それはこの行事が寺院でなく神社のものであることが

 証明している。

 写真はカルカッタ西南オリツサ州プリのもの。

 (インド政府提供)

 京都にはこのほかに<山鉾巡行>で有名な<祇園祭り>があるが、

 この<祇園社>は<八坂神社>というのが正式の名であって、

 <八坂刀売命>や<掖邪狗>と同名であり、

 主祭神は<牛頭大王><スサノオの命>である。

 日本三大祭中随一といわれる壮大な山鉾は、

 いかにも日本の古式床しい祭と思われているようだが、

 高楼を組み、多勢の氏子がひいて市街を練り歩く習俗は、

 そのままインドの<ヒンドゥ教行事>である。

 これはいまもインドやマレーシアなど各地で、

 そっくりのものが見られる。

 こうみてくると京都には長野県とはまた違った濃厚な

 <ヒンドウ教>の影響がみられる。

 しかも神名からも行事の内容からも、

 それは従来説明されて釆たような仏教の影響ではない。

 なぜなら、

 仏教は平安以後、

 同じ仏教内でも対立抗争を繰り返した様に

 排他性の強いものである。

 それが仏教の敵たるヒンドゥの行事を、

 わざわざ輸入したり拡めたりするはずがない。

 ことに日本の仏教は唐代以後に入ったものは

 インド直伝のものではなく、

 中国経由のものであって、

 郷土色豊かなインドの風習を伝える余地はなかった。

 なぜなら中国にはこうした<山鉾巡行>など見られないからである。

 それを仏教のものと誤認させるようにしたのは、

 抜きがたい習俗に手を焼いた僧侶たちが、

 <本地垂跡説>を唱え、神仏を混肴した結果に他ならないが、

 ここでは脱線になるから、

 これらを京都へもちこんだ者は誰であったかを考えてみよう。

 これもまた名前が簡単に謎をといてくれる。

 <太秦氏>と書いて<ウヅマサ氏>と呼ばれた人々。

 彼等は平安京が生れる前から、

 京を中心とする山代(やましろ)国の大族であった。

 この<太秦>は<ウヅマサ>と読むのには骨が折れるが、

 <タイシン>と読むのは楽である。

 <タイシン>とはマレー語で「海」を意味する。

 また<タイシン>に<大臣>の文字をあてることもできるが、

 <賀茂建角身>(タケチヌミ)という名は

 <建角身>と沖縄式によめば、

 そのまま<武内(タケチ)大臣(ヌオミ)>という名に

 つながっていることを思わせる。

 <大臣>はまた<大人>とも同音である。

 とすれば紀が<大人>を<ウシ>と発音させる理由が、

 ここで始めて明らかになるのである。

 そして<ツヌミ>と<ウシ>はそのまま

 <ツヌガアラシト>と<ウシキアリシチ>につながる。

 沖縄弁で<大>は<ウ>であり<シン>は

 <真>も<信>も<チヌ>であった。<秦>と書いても同じである。

 ということは<太秦>と書いてあれば、

 沖縄系の人々には直ちに<ウチヌ>即ち

 <沖縄>のこととわかるものを、

 わざわざ<太と点を一つ>多く打っている。

 これは気をまわせば想像に傾きすぎるから、

 <大>では<ダイ>よまれて、

 マレー語本来の<タイシン>の発音と意味が忘れられるために、

 わざと太(タイ)の字を選んだとみておくことにしよう。

 また、太ヶ秦(タケチヌ)とよむためにも、

 これは太でなければならない。

 かくてまた私たちは<ウチヌ>と<牛>と<シバ神>との集団に

 京都で出あった。

 では国名はどうか。

 もう<山代>という文字は、

 そのものずばりで<ヤマダイ>と読むことができる。

 これが偶然のソラ似音などと思う方はないはずである。

 また事実、

 ここで御覧にいれた証拠は実際のもののごく一部分であって、

 <山代>が<邪馬臺>であったことは疑がう余地がない。

 だから従来の論争型式から行けば、

 それらをずらりと並べなくても、 

 もうこれで邪馬臺国への旅は終るところである。

 しかし、

 私たちのシステムではそんな非学問的なことは許されない。

 なぜなら、まだまだ多くの邪馬臺候補地が

 残っているからであり、さきにもみたように、

 近畿は倭人伝の記載と余りにも違いすぎ、

 また3世紀から7世紀頃までの日本の状態は、

 すべての国や人の大移動のあとを、

 はっきりと示しているからである。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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