出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
137~138頁
「写真:インドの山鉾巡行」
インドを始めヒンドゥ教徒の住む地方では、
至る所で祇園や八幡社のものそっくりの
山車(ダシ)の類が見られる。
日本のものを仏教伝来以後のものと想像するのはあやまりで、
これは<シバ信仰>と共に入っていたのである。
それはこの行事が寺院でなく神社のものであることが
証明している。
写真はカルカッタ西南オリツサ州プリのもの。
(インド政府提供)
京都にはこのほかに<山鉾巡行>で有名な<祇園祭り>があるが、
この<祇園社>は<八坂神社>というのが正式の名であって、
<八坂刀売命>や<掖邪狗>と同名であり、
主祭神は<牛頭大王><スサノオの命>である。
日本三大祭中随一といわれる壮大な山鉾は、
いかにも日本の古式床しい祭と思われているようだが、
高楼を組み、多勢の氏子がひいて市街を練り歩く習俗は、
そのままインドの<ヒンドゥ教行事>である。
これはいまもインドやマレーシアなど各地で、
そっくりのものが見られる。
こうみてくると京都には長野県とはまた違った濃厚な
<ヒンドウ教>の影響がみられる。
しかも神名からも行事の内容からも、
それは従来説明されて釆たような仏教の影響ではない。
なぜなら、
仏教は平安以後、
同じ仏教内でも対立抗争を繰り返した様に
排他性の強いものである。
それが仏教の敵たるヒンドゥの行事を、
わざわざ輸入したり拡めたりするはずがない。
ことに日本の仏教は唐代以後に入ったものは
インド直伝のものではなく、
中国経由のものであって、
郷土色豊かなインドの風習を伝える余地はなかった。
なぜなら中国にはこうした<山鉾巡行>など見られないからである。
それを仏教のものと誤認させるようにしたのは、
抜きがたい習俗に手を焼いた僧侶たちが、
<本地垂跡説>を唱え、神仏を混肴した結果に他ならないが、
ここでは脱線になるから、
これらを京都へもちこんだ者は誰であったかを考えてみよう。
これもまた名前が簡単に謎をといてくれる。
<太秦氏>と書いて<ウヅマサ氏>と呼ばれた人々。
彼等は平安京が生れる前から、
京を中心とする山代(やましろ)国の大族であった。
この<太秦>は<ウヅマサ>と読むのには骨が折れるが、
<タイシン>と読むのは楽である。
<タイシン>とはマレー語で「海」を意味する。
また<タイシン>に<大臣>の文字をあてることもできるが、
<賀茂建角身>(タケチヌミ)という名は
<建角身>と沖縄式によめば、
そのまま<武内(タケチ)大臣(ヌオミ)>という名に
つながっていることを思わせる。
<大臣>はまた<大人>とも同音である。
とすれば紀が<大人>を<ウシ>と発音させる理由が、
ここで始めて明らかになるのである。
そして<ツヌミ>と<ウシ>はそのまま
<ツヌガアラシト>と<ウシキアリシチ>につながる。
沖縄弁で<大>は<ウ>であり<シン>は
<真>も<信>も<チヌ>であった。<秦>と書いても同じである。
ということは<太秦>と書いてあれば、
沖縄系の人々には直ちに<ウチヌ>即ち
<沖縄>のこととわかるものを、
わざわざ<太と点を一つ>多く打っている。
これは気をまわせば想像に傾きすぎるから、
<大>では<ダイ>よまれて、
マレー語本来の<タイシン>の発音と意味が忘れられるために、
わざと太(タイ)の字を選んだとみておくことにしよう。
また、太ヶ秦(タケチヌ)とよむためにも、
これは太でなければならない。
かくてまた私たちは<ウチヌ>と<牛>と<シバ神>との集団に
京都で出あった。
では国名はどうか。
もう<山代>という文字は、
そのものずばりで<ヤマダイ>と読むことができる。
これが偶然のソラ似音などと思う方はないはずである。
また事実、
ここで御覧にいれた証拠は実際のもののごく一部分であって、
<山代>が<邪馬臺>であったことは疑がう余地がない。
だから従来の論争型式から行けば、
それらをずらりと並べなくても、
もうこれで邪馬臺国への旅は終るところである。
しかし、
私たちのシステムではそんな非学問的なことは許されない。
なぜなら、まだまだ多くの邪馬臺候補地が
残っているからであり、さきにもみたように、
近畿は倭人伝の記載と余りにも違いすぎ、
また3世紀から7世紀頃までの日本の状態は、
すべての国や人の大移動のあとを、
はっきりと示しているからである。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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