出典:加治木義博:言語復原史学会
邪馬臺国の言葉
コスモ出版社
64頁
史実として確実性のあるのは
聖武天皇の難波宮ぐらいしか考えられないが、
これも都にはならずに放棄されてしまった。
その理由はすでにもうよくおわかりのはずである。
狭い半島にどんなに壮麗な宮殿を建てたところで、
それを維持する市民生活という支えがなければなりたたない。
また前も後も明け放しではまるで防衛力もない。
とすれば、これは都ではなくて別荘だったのである。
平和な一と時を過ごすには、
海と湖に挟まれて海水魚でも淡水魚でも釣れるという環境は
素晴らしいものである。
聖武遷都というような大げさなものではあり得ない。
「図:18世紀の大阪のサイズ」(加治木原図)>
一般に大阪が
繁栄の極に達していたように想像されている元禄時代、
新板大坂之図(林氏吉永版)や
元禄11年版の大坂町尽絵などを検討すると、
当時の市街は上図の黒い部分しかなく、
東西南北の四区の一部と天王寺区の一部分を含むだけで、
斜線で示した現在の市域に比べて僅か5%にも満たない。
前図の実線を記入してあるから
千四~五百年間の発展がどの程度のものかを、
よく考察してみて戴きたい。
後世大阪を難波と呼ぶ原因になった難波(ナンバ)は
●の地点で、まだ町のはるか南わずかに今宮の名が見えるだけの、
名もない田園地帯の一部に過ぎない。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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