出典:加治木義博:言語復原史学会
異説・日本古代国家
㈱田畑書店
42~45頁
『古事記』は、この9代の他にも、
2代目の綏靖天皇から9代目の開化天皇までの記事もない。
この部分は『日本書紀』の方にも欠けているので、
欠史天皇と呼ばれているくらいである。
何故そんなことになっているのか?
そのわけを考えておく必要があるようである。
『日本書紀』の方は推古天皇以後、
持統天皇に至るまでの記事もあり、
あとになるほど詳しくなっている。
その第24巻、皇極天皇紀の終り近く、
蘇我臣蝦夷(ソガのオミ・エミシ)らが自殺する前に、
聖徳太子らの作った天皇記、
国記をほかの宝物と一緒に焼いたが、
船史恵尺(フネのフビト・エサカ)という者が、
そのうちの国記をとって、
中大兄(ナカのオホエ)皇子に奉った、
という部分がある。
その国記が、本辞であったために、
第2代から第9代までの天皇の部分は
焼失して無くなってしまったのだ、という想像もできる。
まず、この国記が、『記・紀』の系譜以外の部分、
歴史や物語りの部分であったかどうかを確かめてみよう。
① 焼けたのは蘇我氏のもっていた国記、
その他で、そのうち国記だけは焼残りが
中大兄のちの天智天皇の手に入った。
② その他の諸家は、それぞれの言い伝え、
家記などをもっている。
③ その中身は帝紀と本辞である、ということになると、
たとえ国記が全部焼けていても、
多少の間違いや、嘘が混じっていたとしても、
8代もの天皇を欠史のままにしておく
必要はなさそうである。
それとも天武時代の諸家と欠史天皇とは
無関係な人々であったのだろうか?
「写真:石舞台古墳」
奈良県明日香村にあり、鹿我馬子の墓とされる。
皇極天皇紀に蘇我氏親子が
今乗に大陵、小陵を造った話がでている。
「古墳:森浩一」
喜田貞吉博士の研究以来、
石舞台は蘇我馬古桃原墓説が有力である。
年代的には矛盾はない。
この大古墳が盛土を失ったのは、
蘇我氏に対する懲罰であるとの説があるが、
案外事実かも知れない。
未完成との考えもあろうが、
石室内に石棺の破片があったからそれは認められない。
石舞台の調査を実現されたのは濱田耕作博士で、
博士の発想の背景には、
イギリスの巨石記念物との技術的関連の究明があったようである。
現場での研究は末永雅雄博士が担当され、
埋もれていた濠や斜面の張り石が検出され、
石舞台は方墳であることがわかった。
全長19mの石室の壁面を構成する巨石は、
磨かれてはいるものの文殊院西古墳の切石より
前段階の技術である。
最大の天井石が77トンあることや、
石室内の排水溝なども楽しい話題であろう。
『日本書紀』の「天武天皇紀」の下巻には
当時の重臣、貴族達が登場するから、
天皇のいう諸家とはどういう人々であったか、すぐわかる。
まず皇后や妃(ミメ)、それに夫人と呼ばれる天皇の妻女が、
どういう家系から出た人々であったかを見てみよう。
皇后と妃の計4人が兄の天智天皇の皇女。
夫人の二人は藤原鎌足(カマタリ)の娘、
一人は蘇我赤兄(アカエ)の娘、
さらに鏡王の王女、胸形(ムナカタ)の君の娘、
宍人臣(シシヒトのオミ)の娘と書かれている。
以下次々に拾いあげてみると、
紀臣阿閉麻呂(キのオミ・アベマロ)。
大伴連御行(オオトモのムラジ・ミユキ)。
物部雄君連(モノノベのオキミのムラジ)。
大三輪真上田子人(オオミワのマカミダのコフト)。
丹比公麻呂(タジヒのキミマロ)。
大伴社屋連(オホトモのモリヤのムラジ)。
忌部連首(イモベのムラジ・コフト)。
上毛野君三千(カミツケノのキミ・ミチチ)。
阿曇連稲敷(アヅミのムラジ・イナシキ)。
中臣連大島(ナカトミのムラジ・オオシマ)。
平群臣子首(ヘグリのオミ・コフト)。
(フリ仮名は武田祐吉氏による)
また十二年九月、三十八氏に、
同十月には十四氏に連(ムラジ)の姓(カバネ)を与えたとあるが、
その中には
水取(モヒトリ)、秦(ハタ)、葛城(カツラギ)、
来目(クメ)、三宅(ミヤケ)、
草壁(クサカべ)、壱伎(イキ)、磯城(シキ)
といった古い家系を誇る人々が並んでいる。
そのうち藤原、中臣は天孫降臨以来の家柄だというのであるから、
欠史天皇以前からの家伝があるはずである。
また蘇我、紀、平群、葛城は欠史天皇の一人孝元天皇から出ている。
大伴、物部、水取、真上田、来目は
神武東征にゆかりのある家柄である。
丹比は反正天皇から出た名であるが、
新撰姓氏録では海幸彦の火明命(ホアカリのミコト)の
子孫となっている。
比較的新しい上毛野も、崇神天皇の子孫であるから、
結局は「古い伝えをうけついでいた」はずである。
欠史になる理由が見つからない。
一般に『日本書紀』編纂の始まりとされている
天武天皇十年三月の項では中臣遠大島、
平群臣子首が、みずから執筆したと書いてある。
また天武天皇の皇后であった
持統天皇が十八氏に対して、
その祖先から伝わった
纂記(つぎぶみ)を提出させた記事を見ても、
全く同じことが言えるのである。
八天皇の欠史は単なる「国記」の焼失でなく、
もっと他に原因があるということは、
① 『記・紀』の頼りなさの原因は
資料の不足によるものではない。
② 資料は多くの名門が提出したことになっているが、
それでも欠史天皇という不都合なことが
起ってしまった。
③ それをそのままで発表したのは、
無いものは無いのだという公正さのあらわれである。
創作してよいものなら、
こんな不体裁な歴史書は作らなかったはずだ。ということは、
④ 『記・紀』にみられる混乱は、資料がないためでなく、
多すぎたためだとも考えられる。
⑤ 各氏族が提出したものは、へたなスケッチ以上に、
それぞれ違っていたため、
同じ天皇、同じ出来事が、
まるで違ったものに見えるようになったのだ。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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