出典:加治木義博:言語復原史学会
異説・日本古代国家
㈱田畑書店
29~31頁
太平洋戦争中の一時期、
『記・紀』は「絶対で批判を許さぬ」と
されたことがあった。
戦争という特殊な状態が生み出した
一種のヒステリー政策である。
そんな時でも心ある学者は堂々と批判し、研究を続けた。
その批判は昔、
本居宣長も、水戸光圀も、北畠親房も、している。
この人々が大変な国粋主義者でありながら、
なお批判を加えずに居られなかったほど、
それには疑わしい所があり、謎に包まれていたのである。
さらにさかのぼれば記紀自身が疑問をもち、
批判している点がある。
日本書紀の中には、はつきりと、
「おかしい部分があるから、
後世の人が研究して訂正してほしい」と書いてある。
また『古事記』は『日本書紀』にない部分、
たとえば本書でとりあげる大国主神話の大半を
特記している。
これは『日本書紀』のやり方を批判しているとも、
とれるのである。
戦後は、『記・紀』の神聖視が
日本を破滅に追いやったことに対する怒りから、
むしろそれを無視しようとする風潮が生れ、
神話部分を知らない人々の数も実に多い。
反面、神様や天皇家から切り離されて
自由になった古代の謎の解明を、
趣味として楽しむ人々の数は、
かつてなかった程に殖え、
それが邪馬台ブームと呼ばれたような
論争ラッシュを現出したりした。
ことに昭和47年3月の奈良県高松塚古墳の壁画発見は、
ほとんど全国民の眼を古代史の世界へ
向けさせたといっていい。
こんなことは世界でも珍しいことで、
日本人の平均教養の高さを物語るものであるが、
それを裏がえしてみると、
それ程に日本の古代史が
謎に包まれているということである。
明らかになっている歴史には
あまり興味を示さない人々までが、
謎の解明には期待したのである。
興味の中心は古墳に葬られていた主人公が、
一体だれであるか? ということと、
その朝鮮風の壁画風俗から、日本人か朝鮮人か?
ということ、
それによって天皇家の出自もわかるのではないかという
人もあらわれた。
しかし、実に様々な「説」は出たが、
決定的なものはみつからなかった。
その中には
朝鮮民主主義人民共和国の
社会科学院歴史研究所長金錫亨(キムソクヒヨン)氏らの
来日もあって、
かつて同氏が発表された
「三韓三国の日本列島内分国について」という論文の、
日本列島内に朝鮮の植民地があった、
という説もまた改めて注目を集めた。
その説を今少しくわしく御本人のことばを借りて
要約すると、
「『記・紀』の中には任那(ミマナ)に関して
沢山の記事があり、
大和国家が数百年にわたって南朝鮮を
支配したとしている。
それが本当なら、
遺跡遺物が出てこなければならないのに、それがない。
書紀の記事が正しいとすれば、任那は距離的にみて、
日本の中にあると推論するほかない」
というのだ。
これらの説の当否はあとのことにして、
あれ程、見事な壁画が描かれたほど後世のあれほど
保存が良く、
副葬品と共に被葬者の遺骨も残っていた、
証拠で一杯の発見の結果が、
「説」に終って決定的な結論が出ないとすれば、
はるかに年代の古い記紀の記事は、
謎のままで当り前というほか無いのだろうか?
「図:過去に信じられていた任那」
金海が任那日本府の位置
高句麗・百済(漢城)・新羅(安東)・任那(金海)
対馬・九州
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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