2010年3月27日土曜日

欽明天皇が初代か

 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    55~58頁

 『日本書紀』が欽明天皇紀から書き始められたという証拠としては、

 注だけでは弱いとお思いの方に、

 もう一つの証拠を御覧に入れよう。

 『日本書紀』第23舒明天皇紀は、

 推古天皇の死後、

 だれが皇位を継ぐかで動揺する関係者たちを、

 詳細に描写した部分に始まるが、

 その中心人物で、決定権を握る蘇我蝦夷が病気になり、

 代行者、阿倍臣、中臣連、河辺臣、小墾田(オハリタ)臣、

 大伴連ら重臣を通じて

 山背大兄王子に伝えた言葉がある。

 「磯城(シキ)島の宮に

  御宇(あめの下治(し)らしめしし)天皇の世から近世に及ぶまで」

 という語り出しである。

 これは、うっかりしていると、神武天皇の世から、

 という風に思えるかも知れないが、

 磯城島宮御宇天皇というのは欽明天皇のほかにはない。

 蘇我蝦夷といえば、

 その後「天皇記」、「国記」などを焼いて自殺した、

 あの人物である。

 その蝦夷がわざわざ初代天皇を欽明天皇だと

 指摘しているのである。

 それも、天皇を指名するという国家の最前の大事を

 決定するための、

 荘重かつ厳粛な宣言の冒頭を、権威あらしめるための、

 第一声である。

 それがとんでもない間違いであったとしたら、

 喜劇にしかならない。

 さらにそれは蝦夷一人でなく、

 多くの重臣たちを通じて伝えられたのである。

 蝦夷が伏惚の人で神武と欽明を間違ったとしても、

 重臣たちが訂正したはずである。

 また、それも間違ったままで終ったとしても、

 記録するものが訂正したはずである。

 記録者が間違ったとしても多くの校閲者が

 それを訂正したはずである。

 さらには多くの読者が納得しなかったはずである。

 これだけの関門があるはずの日本の正史、『日本書紀』に、

 堂々と欽明天皇が初代天皇だと書いて

 現在まで残っているのである。

 これを単純に間違いだと考えることは不可能だが、

 当時の人人はすべてが、欽明天皇を初代だと知っていた。

 だから唯一人疑うものもなく、

 問題にするものもなく、訂正するものもなかった。

 と考えれば、別に何一つ不思議な所はないのである。

 しかし、こういったからといって

 私はこのたった二つの証拠だけで、

 欽明天皇が初代の天皇であり、

 『日本書紀』は欽明紀から書き始められた、

 と「断言」するつもりはない。

 仮にそれが真実であったとしても、

 それを証拠だてるのには、

 まだまだ動かない証拠や証明が沢山必要である。

 では何のために、欽明天皇が出てきたか。

 私たちの目的は、

 『記・紀』が謎ときの相手として

 価値のある文書かどうかを知ることにあった。

 欠史部分は「信頼できる」という一つの証言だった。

 『記・紀』の内容は混乱しているが、

 それが、かえって本当の内容をもっている。

 創作ではない、という証拠であった。

 その一つが見つかったから、

 それをさらに確かめるために、欽明紀冒頭の注と、

 欽明天皇を初代だという証言が、

 真実か、でたらめか考える必要が生れたのである。

 欽明天皇が初代だ、と断言しないことは、

 初代でない、と断言することでもない。

 ただ私たちは、初代天皇という重大な問題さえも

 混乱している所の欽明紀の注どおりの状態が、

 『記・紀』に実在することを確認するだけでいい。

 その注が言う通りのことは、

 現在の『日本書紀』の開巻第一にも

 「皇国主、豊組野、豊香節野……」と恐ろしいほどの

 変り方の実例となって現われている。

 だから今、私たちが、断言できることは、

 ① 『記・紀』は大変混乱した書物である。

 ② 一つの名前が、沢山に変っている。

 ③ その理由は古字の転写に原因がある。

 ④ それは一種の歪んだスケッチである。

 ⑤ それを使って原型を復原できそうだ。

 ⑥ 復原できれば、少くとも『記・紀』に書いてある内容を、

   正しく読むことができる。

 ⑦ それは創作でなく、

   本当の日本の古代史だと信じることのできるものである。

 ということを証明する数々の証拠があるから、

 「『記・紀』の謎ときは、やり甲斐がある」ということになる。

 その謎ときの手がかりも見つかった。

 名前の復原がそれである。

 まずそれにとりかかろう。

 「写真:2つの欽明天皇陵」
 http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/029/index.html

 (上)現在の欽明天皇陵(梅山古墳:奈良県明日香村平田村)

 (下)墳丘の長さが318m。

   大和最大の古墳である見瀬丸山古墳の後円部。

   周濠部には人家が立ち並ぶ。

   「文化財をたいせつに」

   「史跡丸山古墳」の標識も宅地開発の犠牲になって、

    写真のような有様。

  森浩一氏によれば、これが本当の欽明天皇陵であるという。

 「見瀬丸山古墳」

 墳丘の長さが318mの大前方後円墳で、

 後円部に開口していた横穴式石室は長さ26mもある。

 二つの家形石棺が『聖跡図志』などに描かれているが、

 私は欽明天皇と堅塩(きたし)の棺(森浩一氏推定)。

『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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