出典:加治木義博:言語復原史学会
異説・日本古代国家
㈱田畑書店
226~230頁
しかし、前にもお話しした通り、
日本側の人々は当時<ス>を<ツ>としか発音できなかった。
だから、こちらで記録されたものは<ツモ>と書かれた。
この<ツモ>に誰かが出(ツ)雲(モ)と小う字を当てたのである。
まさか<ツ>に<出>という字をあてるなんて?
とお疑いの方もあると思うので、次の例を御覧戴きたい。
『日本後紀』に延暦廿三年十月、
桓武天皇、紀伊”玉出島”行幸の記事がある。
この玉<出>島はタマ<ツ>シマと読むのである。
そこにある神社の名は玉津島神社である。
また日子日日出<見>の命は、
一般に誤ってヒコホホ<デ>ミの命と読まれているが、
本当はデミという敬称はないのであって、
これは度美、斗米、斗売、都見などと同じく
”津見(ツミ)”と読むのが正しい。
<ツ>に対して出を用いた例はまだあるが、
これで御理解戴けたと思う。
高朱蒙というフルネームは、
高(タカ)の国の出(ツ)雲(モ)の王という名のりと一字も余さず、
完全に一致したのである。
<ツモ>が<イツモ>と読まれるようになったのは、
この高が[倭」に変ったためである。
倭出雲(イツモ)がのちに出雲(イヅモ)と省略される間に、
出という字は<ヅ>から<イヅ>という読み方に
変化して行ったと見られる。
なぜなら、鹿児島方言は今も「出る」を「ヅッ」と
発音する習慣を伝えているからである。
これらの文字は時間帯を示す指針だといえる。
しかし、そんなに都合よく高から倭に変ったであろうか?
その証拠はもうずっと前から、あなたも御存知のはずである。
<タカ>ではないが<タケ>を討ちとって、
その名をもらって「倭・建」を名のった人物。
倭ヤマトの国の皇子「日本武尊」として表現されたものを、
それだと考えることができる。
といっても、それには一つ都合の悪い点がある。
高と建、タカとタケが一致しない点である。
答えは簡単である。
「高市」と書いて「タケチ」と読む例が、
『古事記』には幾つもある。
天照大神とスサノオの命の誓約で生れた五男子の一、
天津日子根の命の子に高市県主(タケチのアガタヌシ)。
雄略天皇記の大后の御歌の中に
「夜蘇登能(ヤマトノ) 許能多気和爾(コノタケチニ)」とあって、
この二つは現在奈良県にある高市郡の名の起りである
高市(タカイチ)という地名であり、
それは多気知(タケチ)と発音することを示しているし、
高知県に武市と書いてタケチと発音する名が実在する、
からである。
「写真:出水市と米之津川(川上正治撮影)」
(国道3号線から望む)
また古文献には竹をタカ、タケの両音に当てたものが多出する。
高はタケで、建であった。
このことはもう大分前えに私たちにはわかっていたのだった。
では討たれた側のヤマタの大蛇、熊曾、川上建、出雲建、
その他多くの名をもった人物は誰か?
それは松譲王であり、
品陀真稚王であり、
建伊都陀宿弥であり、
多勢の応神天皇后妃の父たちであり、
その他、時によってはスサノオの命自身とさえ
混線している所の
「一人の」人物である、としか言いようがない。
しかし、出水地方は九州唯一の鶴の渡来地であり、
日本武尊の白鳥伝説と一致するだけでなく、
五十猛はゴソモウ→コスモウ→高朱蒙と考えても、
出水→出雲→五十猛→高朱蒙
という証拠は偶然ではあり得ない。
高朱蒙という名自身もまた、
何ものよりも雄弁に、高句麗建国と、スサノオの命と、
出水=鹿児島県との同一性を声高らかに証言しているのである。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書