2010年4月2日金曜日

単語比較の早わかり


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    106~109頁

 たとえ外来語であろうが借用語であろうが、

 捨ててはならないことは、お判り戴けたと思う。

 では、その単語をどう処理するか。

 先の本の著者は、単語の比較の方法として

 『類似点が多いか少いか、大切な点が一致するかしないかを、

  まず形式的に比較する。

  そして共通な単語を探し出す。

  この比較にあたっては、心得なければならないことがある。

  Aの言語とBの言語とで、

  まったく同じ形をしているものだけが

  共通な単語だと思ってはならないことである。

  例えば、ドイツ語で、名前のことをナーメという。

  日本語では、関東で、名前をナメーということがある。
 
  こういう共通の単語があるから

  ドイツ語と日本語とはずっと昔に関係があった、

  というようなことを考える人があるが、それはどうか。

  そういう形と意味の似た単語は、

  何千という単語をつき合わせて行けば、

  その中に、いくつかは数えられるに決まっている。

  ごく普通に使われる単語だけで3000はあるのに、

  音の数は現代日本語では100である。

  だから、偶然似た形の単語があるのほ無理もない。

  英語で笑うことをラフという。

  日本語では昔、ワラフといった。

  だからこれは共通な単語である、

  というのなども、誤りである。

  勝手にワラフの<ワ>を取り去って比較してはならない。

  そんなことをするのは、笑話には適当でも、

  言語の系統の比較には、してはならないことである。

  世間で行なわれている日本語の系統論の大部分は、

  こうした笑話のたぐいである。

  単語の比較で大切なことは、

  同じ形をしているものを発見することではない。

  音韻の対応を発見することである。』

 これは原文のままである。

 私達の名詞の比較の場合、

 AとBが、まったく同じ形をしているものはほとんどない。

 違っている中に共通点を発見しなければならない。

 だが、ナーメとナメーのように類似したものは、

 偶然だなどといって捨ててはならない。

 「笑う」と「ラフ」くらい似ているものは

 必ず何らかの関係があると考えて、

 勝手に偶然だなどと取りのけてはならない。

 私たちが取りあつかっているものは実に様々に変型している。

 そこには余分なものがくっついたり、

 大事なものが欠けたりしている。

 それを取りのぞいたり埋めたりして復原するのである。

 歴史というのは時間の経過に比例して、

 風化したり苔がついたりするのが当り前なのである。


 ① namae         ナマエ    日本語
   na          ナ      日本語

 ② nirwm        ニルム    古朝鮮語 
   (irwm)        (イルム)    (朝鮮語)

 ③ mim         ミン         中国(北)語

 ④ mijo-            ミョー    中国(南)語

 ⑤ nama         ナマ     マレー語(インドネシア)

 ⑥ nan         ナン      ビルマ語

  ⑦  na-ma            ナーマ    サンスクリット語
      na-mna-          ナームナー  サンスクリット語

 ⑧ ma          ナ      パンジャブ語

 ⑨ anun             アヌン    アルメニア語

 ⑩ namo             ナモ     ゴート語

 ⑪ ο-νομα     オノマ     ギリシャ語

 ⑫ nomen      ノメン    ラテン語

 ⑬ nombre      ノムブレ      スペイン語

 ⑭ name       ネーム    英語

 ⑮ na-me            ナーメ    ドイツ語

 代表的なものをあげてある。

 この他にも多数の同源語が分布している。

  (加治木原図)

 それを、この言語学の方の常識? 

 に妨げられて逆のことをしては、

 それこそ笑い話にもならないのである。

 なおこれは余分なことかも知れないが、

 この引例のナーメとナメーは、

 日本のナマエを東端に朝鮮のイルム、

 マレーのナマ、ビルマ語のナソ、

 サンスクリットのナーマ、アルメニアのアヌン、

 ゴートのナモ、ラテンのノメン、

 スペインのノムプレ、イギリスのネーム等々々、

 解き上げるのが、わずらわしい程の対応をもっており、

 日本<人>とドイツ<人>はともかくとして、

 日本<語>とドイツ<語>が、

 共通の祖先をもっている部分があることが実証できる。

 その類似は偶然などではなく、

 研究すればするほど関係は深くなるばかりなのである。

 これで学問の研究分野と研究法は

 お互いに助け合うことのできないものであることが、

 お判りになったと思う。

 私達は同じ言語に属する名詞を扱うからといって

 言語学をやっているわけではない。

 それは同じ魚を使って一人は刺身を造り、

 一人は中華料理の揚げ物をつくり、

 一人は煮魚、一人は塩焼、一人は洋風のバター焼きをつくる、

 といったようなものである。

 めいめいが得意の腕をふるってこそ

 美味い料理ができるのであって、

 一人が魚料理はオレにまかせろといって全部油で揚げては、

 どの料理も台なしになる。

 学問も同じである。自分だけが専門家のつもりで、

 ああしてはいけない、こうすべきだ、と、

 他の分野に口出しをすることは、

 科学者のすることではない。

『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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