2010年4月6日火曜日

古代日本に横書きがあった(4)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    128~129頁
 要するに、

 この頃すでに倭人は今の北京よりもはるかに遠い

 洛陽まで往復するだけの能力をもっていた。

 旅行というのは、

 左右の足を交互に前へ出せばいいというものではない。

 160人もの人間を献上しようといえば、

 他にもかなりの家来がついて行ったものと考えられる。

 今はヨーロッパへ行くのに、ジェット機があり、ホテルがあり、

 その他の交通機関やサービス機関、商店、

 それらすべての代理店があって、

 当時とは問題にならないくらい便利になっている。

 それでも仲々流行というのは大変なものなのである。

 古代だからといって倭国王たちは乞食をしたり、

 泥棒をしたりして洛陽へたどりついたわけではあるまい。

 今のお金に代る何ものかをもって旅費に当て、

 体面を保ちながら親善族行をしたのである。

 さらに忘れてならないのは、

 相手は中国ばかりではないということである。

 当時の船舶事情を考えると、

 黒潮を逆に乗り切って中国に直接上陸するというより、

 朝鮮半島を陸行する方法が選ばれたと考えられる。

 とすればたちまち、半島の人々との間にも外交、

 経済両面の問題があったことになる。

  [図:大元通宝にみる蒙古文字」

 「図:インド古貨にみる古代文字」

 (著者所蔵品より拓本)

 こうした事実は、

 朝鮮半島に居た人々とは中国へ行く以前からの、

 おつき合いがあったことを実証している。

 始めて海を渡っては言葉も通ぜず、

 二百人や三百人の人数では、

 たちまち殺されて宝物類を奪われるのがオチである。

 そうしたことが起らなかったのは、

 紀元前後には半島ともかなりの往来があり、

 洛陽へ行く能力があれば、他の方面の人々とも往来があり、

 その中には横書きの文字をもった人々や、

 皮を衣服にする習慣の人々もあって、

 その人々の一部は日本にも住んでいたと考えられるのである。

『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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