出典:加治木義博:言語復原史学会
異説・日本古代国家
㈱田畑書店
128~129頁
要するに、
この頃すでに倭人は今の北京よりもはるかに遠い
洛陽まで往復するだけの能力をもっていた。
旅行というのは、
左右の足を交互に前へ出せばいいというものではない。
160人もの人間を献上しようといえば、
他にもかなりの家来がついて行ったものと考えられる。
今はヨーロッパへ行くのに、ジェット機があり、ホテルがあり、
その他の交通機関やサービス機関、商店、
それらすべての代理店があって、
当時とは問題にならないくらい便利になっている。
それでも仲々流行というのは大変なものなのである。
古代だからといって倭国王たちは乞食をしたり、
泥棒をしたりして洛陽へたどりついたわけではあるまい。
今のお金に代る何ものかをもって旅費に当て、
体面を保ちながら親善族行をしたのである。
さらに忘れてならないのは、
相手は中国ばかりではないということである。
当時の船舶事情を考えると、
黒潮を逆に乗り切って中国に直接上陸するというより、
朝鮮半島を陸行する方法が選ばれたと考えられる。
とすればたちまち、半島の人々との間にも外交、
経済両面の問題があったことになる。
[図:大元通宝にみる蒙古文字」
「図:インド古貨にみる古代文字」
(著者所蔵品より拓本)
こうした事実は、
朝鮮半島に居た人々とは中国へ行く以前からの、
おつき合いがあったことを実証している。
始めて海を渡っては言葉も通ぜず、
二百人や三百人の人数では、
たちまち殺されて宝物類を奪われるのがオチである。
そうしたことが起らなかったのは、
紀元前後には半島ともかなりの往来があり、
洛陽へ行く能力があれば、他の方面の人々とも往来があり、
その中には横書きの文字をもった人々や、
皮を衣服にする習慣の人々もあって、
その人々の一部は日本にも住んでいたと考えられるのである。
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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