2010年4月30日金曜日

名前は証言する高朱蒙(2)


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    226~230頁
 しかし、前にもお話しした通り、

 日本側の人々は当時<ス>を<ツ>としか発音できなかった。

 だから、こちらで記録されたものは<ツモ>と書かれた。

 この<ツモ>に誰かが出(ツ)雲(モ)と小う字を当てたのである。

 まさか<ツ>に<出>という字をあてるなんて?

 とお疑いの方もあると思うので、次の例を御覧戴きたい。

 『日本後紀』に延暦廿三年十月、

 桓武天皇、紀伊”玉出島”行幸の記事がある。

 この玉<出>島はタマ<ツ>シマと読むのである。

 そこにある神社の名は玉津島神社である。

 また日子日日出<見>の命は、

 一般に誤ってヒコホホ<デ>ミの命と読まれているが、

 本当はデミという敬称はないのであって、

 これは度美、斗米、斗売、都見などと同じく

 ”津見(ツミ)”と読むのが正しい。

 <ツ>に対して出を用いた例はまだあるが、

 これで御理解戴けたと思う。

 高朱蒙というフルネームは、

 高(タカ)の国の出(ツ)雲(モ)の王という名のりと一字も余さず、

 完全に一致したのである。

 <ツモ>が<イツモ>と読まれるようになったのは、

 この高が[倭」に変ったためである。

 倭出雲(イツモ)がのちに出雲(イヅモ)と省略される間に、

 出という字は<ヅ>から<イヅ>という読み方に

 変化して行ったと見られる。

 なぜなら、鹿児島方言は今も「出る」を「ヅッ」と

 発音する習慣を伝えているからである。

 これらの文字は時間帯を示す指針だといえる。

 しかし、そんなに都合よく高から倭に変ったであろうか?

 その証拠はもうずっと前から、あなたも御存知のはずである。

 <タカ>ではないが<タケ>を討ちとって、

 その名をもらって「倭・建」を名のった人物。

 倭ヤマトの国の皇子「日本武尊」として表現されたものを、

 それだと考えることができる。

 といっても、それには一つ都合の悪い点がある。

 高と建、タカとタケが一致しない点である。

 答えは簡単である。

 「高市」と書いて「タケチ」と読む例が、

 『古事記』には幾つもある。

 天照大神とスサノオの命の誓約で生れた五男子の一、

 天津日子根の命の子に高市県主(タケチのアガタヌシ)。

 雄略天皇記の大后の御歌の中に

 「夜蘇登能(ヤマトノ) 許能多気和爾(コノタケチニ)」とあって、

 この二つは現在奈良県にある高市郡の名の起りである

 高市(タカイチ)という地名であり、

 それは多気知(タケチ)と発音することを示しているし、

 高知県に武市と書いてタケチと発音する名が実在する、

 からである。

 「写真:出水市と米之津川(川上正治撮影)」

  (国道3号線から望む)

 また古文献には竹をタカ、タケの両音に当てたものが多出する。

 高はタケで、建であった。

 このことはもう大分前えに私たちにはわかっていたのだった。

 では討たれた側のヤマタの大蛇、熊曾、川上建、出雲建、

 その他多くの名をもった人物は誰か?

 それは松譲王であり、

    品陀真稚王であり、

    建伊都陀宿弥であり、

 多勢の応神天皇后妃の父たちであり、

 その他、時によってはスサノオの命自身とさえ

 混線している所の

 「一人の」人物である、としか言いようがない。

 しかし、出水地方は九州唯一の鶴の渡来地であり、

 日本武尊の白鳥伝説と一致するだけでなく、

 五十猛はゴソモウ→コスモウ→高朱蒙と考えても、

 出水→出雲→五十猛→高朱蒙

 という証拠は偶然ではあり得ない。

 高朱蒙という名自身もまた、

 何ものよりも雄弁に、高句麗建国と、スサノオの命と、

 出水=鹿児島県との同一性を声高らかに証言しているのである。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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