出典:加治木義博:言語復原史学会
異説・日本古代国家
㈱田畑書店
198~201頁
あとの方のお話は一体どこの話だろう?
インドネシアか、インドか?
とお思いになったかも知れない。
本当は朝鮮のお話なのである。
しかも、とても有名な話なのである。
こういうと、神話や童話の専門家は口をそろえて、
「そんなバカな! 朝鮮にはそんなお話なんかない」
というに違いない。
その通り、神話や童話ではない。
これは歴史なのである。
事実あったこととして記録されている出来事なのである。
こう言うと今度は、
あなたが黙っていられないのではなかろうか?
「じや、ウサギやワニというのはどうなるんだ?
そんな仮名を使うから、ややこしいんだ。
忙しい時に、冗談は止めてほしい……」と。
それもまた、仮名や冗談ではない。
本当にその通りなのである。
といっても、たった一つタネがある。
タネ明かしをすれば、
このウサギ王の名は朝鮮語になっているのである。
その名は新羅の「納祇(トッキ)王」。
トッキとはウサギのことなのである。
朝鮮の歴史書によって、
この登場人物たちに本名をあてはめてみよう。
王子は「未斯欣(ミシキン)」、
ワニは魏志倭人伝の「倭人(ワニ)」である。
忠臣は「堤上(チュウ)」という。
では将軍は誰か?
有難いことに、この歴史は日本側からも記録されている。
しかも『日本書紀』にである。
神功皇后紀五年三月の項に、
この物語が裏返しになって詳しく出ているのである。
そこでは王子の名が、
「ミシキン」でなく「ミシコチホツカヌ」と書かれているから、
気づかない人が多いのだと思うが、
「微叱許智伐旱」というのは大半が称号であって、
どちらも同一人だとわかるし、その話の内容が、
何よりも雄弁に同一人だということを証明してくれている。
それによって将軍の名が、
「葛城襲津彦(カツラギソツヒコ)」であることもわかる。
この襲津彦は同じ神功紀六二年の項に続いて、
引用された百済記という本の記事に、
「沙至(サチ)比脆」という当て字で登場し、
こう書かれたものが引用されている。
「新羅が貴国(たかくに)(日本)にちゃんと仕えないので、
貴国は沙至比晩に討たせた。
新羅は美女二人を美しく装おわせて、港まで出迎えさせた。
沙至比脆はその美女をもらったために、新羅を討たずに、
反って味方である加羅の国を攻めた」。
これも五年と六二年に分れているので
あまり気づかなかったのだと思うが、
このころの記事は、書紀の筆者が忠告してくれた通り、
順番(ツギテ)を失って滅茶苦茶になっているのである。
年数でなく、内容を信じる他ない。
以上で、大体この話が、
いなばのしろうさぎの原話であったことが納得いったと思う。
だが二つ三つ不満な所がある。
それを片附けてしまおう。
それは白ウサギの方は海を渡った本人がウサギだったのに、
原話では王がウサギという名だからである。
もう紙数があまりないので、
この研究をご一緒に丁寧にやれないのが残念だが、
私がすでに解いた答えをお話しすることで今は我慢して戴こう。
実は、新羅と百済の王家の系譜を解読すると、
この当時は両国王が一緒になるのである。
言いかえると、まだ本当に二国に分れていなかったと見えて、
同じ人々が両方の王家の先祖として書かれているのである。
このことは魏志東夷伝中にも書かれていて疑わしい所はないが、
この納祇王にあたる人物が、
百済の系譜では、「直支トッキ王」と書かれている。
そして、
この人物が王子のとき日本へ人質として来ていたと書いてある。
これも日本書紀の応神紀中に詳しく出ている。
だから国によって、
この王と王子の名に混乱が起っているのである。
この場合、百済の伝えの方が正しいとしたら、
ウサギはワニをだまして海を渡ったのである。
「地図:最盛期の新羅」
紀元670年~1300年
唐:契丹
渤海:扶余・沃沮
新羅
『参考』
小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書
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