2010年4月18日日曜日

「人類の敵」の仕事


 出典:加治木義博:言語復原史学会
    異説・日本古代国家
    ㈱田畑書店
    189~192頁

 それを原始的幼稚とすると、

 知能犯的白痴とでも言うほか、いいようのないものがある。

 非常に高名な人物の仕事であるから、

 有名ということ必ずしも優れた業績を意味しないことの

 実例として挙げておく。

 といってもその名は伏せておく。

 しかし、まるっきり架空の議論とお考えになっても困るので、

 それを要約したものが掲載されているものを明かにしておこう。


 それは辞典であって、様々な学説が含まれている。

 私のこの非難が、

 辞典の編者たちに向けられたものでないことは当然である。

 非難どころか、

 それはこれまでの神話や民俗学の成果を

 的確に把握させてくれる優れた文化所産である。

 要するに、私たち自身が、それらの学説を検討しながら読み、

 鵜呑みにしさえしなければいいのである。


 「絵:形代2種」

 紙を人がたに切ったものや、草、ワラなどを束ねて作ったもので、

 病人などの身体をさすり、

 災厄を移して海や川に流した。

 平安時代には、これから発展した雛人形が生れ、

 江戸時代に入ると雛祭りに分化したが、

 形代流しは鳥取県や和歌山市の加太神社などに残っている。

 その朝倉治彦氏ほか三氏共編になる

 「神話伝説辞典」(東京堂)には、

 随所に次のようなものが見られる。

 (イ) 258頁

   「すさのおのきと」、

   「その罪によってヒゲと手足の爪とを抜かれ、千座の置戸を

    負わされて追放される姿は、祓(はらい)の行事において

    罪穢(けがれ)、

    災厄のにない手として祓われる、形代(カタシロ)の人格化」

 (ロ) 259頁

   「高天原から追放されるに際して、

    青草を束ねて蓑笠(ミノカサ)とし、

    衆神に宿を乞うたというのも、

    根の国から豊饒をもたらす霊物、まれびとの姿」

 (ハ) 「この神の号泣は巫覡(フゲキ)(ミコ)や司祭の神懸りの

     狂踏乱舞を表わしたものであろう」

 (イ)をみて戴きたい。
 
   スサノオの命というのは、神道で行なわれる祓の行事の、

   人形などの形代が正体だというのである。

 (ロ)は、霊物、まれびとが正体だというのである。

   (何のことかよくわからないが。)

 (ハ)は、ミコの動作から神話が作られた、というのである。

 一体これが結論といえるものであろうか?

 スサノオの命とは何か?

 どうしてあんな祭りをするか?

 という疑問に対して、それは祭りの行事から生れたものだ、

 というのである。

 人形や踊りによって思いついたアイデアで作られたものが

 スサノオであれば、

 それはどんなに研究した所で歴史を知る足しにはならない。

 推理はストップするほかない。

 この説明のしかたをもう少しわかりやすく言いなおしてみると、

 「スサノオの命の祭りには何故、形代を作るのか?」

 という問に対して、

 「それは形代がスサノオの命だからだ」と答える、

 ということなのである。

 「青草を束ねて蓑笠とした」のは、

 歴史的事実に無関係な空想の産物

 ”宝物”や”まれびと”の姿を、

 表現しただけのものと、いうのである。

 ”まれびと”が”マレー人”ではないか?。

 という探求心は一瞬でピシャリと封殺されてしまう。

 現実にそれと同じ風俗をもった人々として記録されている

 『日本書紀』の種子島人の風俗との関係も、

 空想の産物ということでは、

 二つを結び合わせる気さえ起らない。

 このように、

 神話や伝承の起源を神事や習俗で

 説明してお終いだとするやり方は、

 歴史の究明にとって非常に有害なのである。

 それはせっかく見つかった

 「手がかりを、絶滅するための仕事」なのである。

 なぜそんな結果になるか?

 それは疑問を解く筋道が逆だからだ。

 米を洗って、それを炊いて、

 茶椀と箸でそれを食ペるのが生きて行くための

 食事の順序である。

 それを炊いて、茶椀によそって、

 食べずに便所へ投げこむのはバカである。

 だが、まだこれは順序としては正しい方向をとっている。
 
 逆にものを考えるというのは、

 これはもう救いようのないバカげたことなのである。

 ところが、今ご覧に入れたように、

 そんなものが学問として通用していたのである。

 そしてそれが日本の本当の歴史を隠してしまい、

 真相の発見を遅らせ、

 「間違った史観」に支えられた「悪魔ども」が、

 私たちが愛する何ものにもかえられない人々を、

 戦禍の中で「惨殺」したのである。

 私も、あなたも、おとなしいことなど言ってはいられない。

 考えれば考える程、怒りが湧き上ってくるのである。

 それは今、霊界にあって、

 なおも怒りに身を震わせている幾百万の人々の怒りなのである。

 私はその犠牲者たちの代弁者にすぎない。

 『参考』

小林登志子『シュメル-人類最古の文明』:中公新書

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